院長:久納 将之

提携医師にも推薦! 医学的・科学的根拠で施術する最強の治療院

患者さん「仕事に育児……せっせと頑張って、やっと一息つけると思ったら、もう体はガタガタ。ああ、もう歳かしら……」

少し青白い顔色に、疲労の蓄積が深く刻まれている。

実年齢は四十代。

しかし、長年の健康の悩みが、まるで六十代にも見えるほどの疲労感を漂わせていた。

女性は、痛む腰をそっとさすりながらつぶやいた。

広々としたカウンセリングルーム。

棚には、幾重にもレントゲンのフィルムらしきものが並んでいる。

久納「いえいえ、決して歳のせいではありませんよ。今まで、本当に行うべきケアができていなかっただけなんです。」

患者さん「でも、他のマッサージ店で全身を揉んでも、全然良くならなくて。その時は楽になるんですけど、すぐにまた腰痛がぶり返すんです。」

久納「筋肉だけを揉んでも、骨や神経は守れませんからね。ご安心ください。当院でしっかりと改善していきましょう!」

そう力強く語るのは、柔道家のような体格の治療家、久納将之。

その言葉に、女性は納得したような表情を見せるも、どこかまだ拭いきれない不安を滲ませながら、施術ルームへと向かった。

久納は心の中でつぶやく。

「そりゃ不安ですよね。でも、『あれ』を見た後も、その不安はまだ残っているでしょうか?」

治療家は、確固たる自信を持って女性の初回施術を終えた。

この治療家の名は――

久納 将之(ひさのう まさゆき)

「之(これ)、まさに将(まさ)なり」

名付け親が込めたその言葉を背負う男の、治療家としての物語が今、始まる。

順風満帆か、いやどん底を味わってきた男です

患者さん「先生、この治療って前からされてたんですか?」

久納「いいえ、この治療法に出会って切り替えたのが2020年なんです。その前は、筋肉から整える整体をしていたんですよ。」

久納は、親しい患者さんに向かって、どこか物寂しそうな笑みを浮かべながら答えた。

その、ほんの少し影を帯びた笑顔の奥には、一体どんな思いが秘められているのだろうか――。

何としても治りたかった過去

2015年、久納は治療院を開業した。なぜ、これほどまでに治療に情熱を燃やす、愚直なまでの求道者となったのか。

その答えは、中学生時代に遡る――。

柔道に明け暮れていた久納少年は、「強くなる!」ただその一心で、日々の厳しい練習に加え、自主トレーニングにもひたすら打ち込んでいた。中学2年の冬、練習中に突然、耐えられないほどの激しい痛みが腰を貫いた。痺れと痛みは瞬く間に広がり、彼は畳の上で動けなくなってしまった。

診断名――《腰椎分離症》。

「まだ少し痛むけれど、絶対に、次はあいつに勝ってみせる!」 「痛みなんかに負けるもんか!」

自らを鼓舞し、限界を超えて体を酷使し続けた。

その結果、久納の体は悲鳴を上げた。

だが、その悲痛な叫びを彼は聞こうともしなかった。体はついに、怪我という形で強制的にストップをかけたのだ。

腰椎分離症とは、腰の骨の疲労骨折。

筋肉痛とは全く異なり、そう簡単に治るものではない。コルセットで固定する以外に術はなく、中学最後の県大会は、出場すら叶わぬまま終わった。

この拭いきれない無念を胸に、高校進学後も柔道を続けるため、彼は小城高校を目指す。

学力は決して高くなく、周囲からは厳しいと言われたが、まるで人が変わったかのように猛勉強に励んだ。

250点満点中50点程度だった成績は、180点まで跳ね上がり、見事、進学校への切符を手に入れた。それは彼にとって大きな成功体験となり、中学の恩師からは「あの不真面目だった生徒が、ここまで変わるとは…」と驚嘆され、他の生徒たちに「人は変われる」という希望を熱心に語ったという。

受験勉強中は無理をしなかったためか、腰の痛みも嘘のように落ち着いていた。

しかし、念願の柔道を再開すると、すぐにあの忌まわしい痛みが蘇ってきた。

練習を重ねるごとに、体は思うように動かなくなっていく……。

実は、2本ある腰の骨のうち、1本はコルセットでなんとか繋がったものの、再び骨折してしまったのだ。

診断名――《腰椎分離すべり症》。

以前よりも状態は悪く、不安定になった骨は前へと滑り出し、筋肉だけでなく、神経までをも圧迫し始めた。

そんな状態にも関わらず、彼はまた無理を重ねた。その結果、腰だけでなく、膝の靭帯や軟骨の損傷、骨折と、次々に怪我に見舞われることになった。精神的にも追い詰められ、頭痛や痔といった自律神経の不調も顕著になった。それでも、負けず嫌いな性格が彼を突き動かし、痛みに耐えながらの日々を送った。

『悔しい…!本当に、悔しいよ! 誰か、この苦しみから解放してくれ…!』

仲間からは「もっと根性見せろよ!」と叱咤されるも、体は既に限界を超えていた。言うことを聞かない体を持て余し、幾度となく枕を涙で濡らしたことだろう……。

痛みと痺れ、そして体調不良。体はまるで自分の意思とは無関係のように動かない。柔道の試合も、練習も……そして、生きることさえ諦めたくなった……。

それでも、ボロボロになりながらも、「何と言われようと、最後までやり抜く!」と、彼は途中で投げ出すことなく部活動を引退した。

高校柔道での現役生活を終えた時、彼の心に残ったのは、辛うじてやり遂げたという根性と、「自分と同じような苦しみを、周りの誰にも味わってほしくない」という切実な願いだった。この強い想いが、久納将之を、愚直なまでに患者と向き合う治療家の道へと導いたのだ。

福岡の専門学校進学

専門学校に入学した久納は、研修先を探し始めた。

ある日、クラスメイトが「今、研修生を募集しているんだけど、誰か来ないか?」と教室に響く声で叫んだ。

何気なく話を聞いてみると、彼のアパートのすぐ近くにも店舗があるらしい。

久納は、逸る気持ちを抑えきれずに言った。「俺も面接、受けても良いか?」

それが、治療バカと呼ばれることになる久納将之の、原点となる出会いを呼び込むことになる。

研修先での出会い

福岡市早良区での研修が始まった。

そこで久納は、カイロプラクティックを専門とする先生や、一人ひとりの患者に丁寧に向き合い、大切にする院長先生と出会う。

研修中、厳しい言葉を浴びせられることもあった。

「お前は全然患者さんを診れていない!もっとちゃんと患者さんを見ろ!患者さんに、お前が合わせるんだ!」と。

研修生ながら、その時の久納は悔し涙を流した。

しかし、この時の経験が、自身の治療家としての土台となることを、当時の彼はまだ知る由もなかった。

新社会人になった途端思わぬ重圧

社会人となり、系列店が熊本に新店舗をオープンすることになり、久納はオープニングスタッフとして熊本県玉名市での勤務をスタートさせた。

店舗にはベテランの院長と、彼を含む新社会人が二人。

徐々に患者さんの数は口コミで増え始め、いつの間にかその院は繁盛院となっていた。

施術スタイルは、助手が10分ほど下半身を担当し、院長や久納が残りの10分で骨盤から上の施術を行うというものだった。

1年ほどが経った頃、当時の院長が独立開業することになった。

「この先、どうしようか……」

そんな不安をよそに、患者さんは途切れることなく来院し、毎日が目まぐるしい忙しさだった。

研修先で学んだカイロプラクティックの技術も活かして施術にあたっていたため、患者さんから陰で「あなたに治療してほしい」と個人的に頼まれることも少なくなかった。

当時は指名制ではなかったため、その要望に応えることはできなかったが、この時期こそが、治療家・久納将之が最も患者さんから求められていた時だったと言えるだろう。

武雄に新店舗開院

そんな折、福岡の別の系列店の院長が開業するという話が私の耳に入ってきた。「久納先生、一緒にやらないか?」

会社に残っても自分の力を十分に発揮することは難しいと感じていた私は、その誘いを承諾した。

彫りの深い顔立ちの先生に誘われ、二人は開業地の選定を始めた。

インターネットで候補地を探し、各地を実際に見て回った。

そして、二人が見つけた場所は、温泉地として名高い佐賀県武雄市だった。

コンビニエンスストアの跡地の広い店舗を借りることになった。

当初、共同出資の話もあったが、共同経営はうまくいかないという話を耳にしていたため、私はそれを断り、雇われの副院長として、患者さんのために自分の腕を振るうことに決めた。

開業から1年ほど経ち、医院が繁盛してきた頃だろうか。

当時の院長はリラクゼーション的なマッサージを重視する考え方で、私は根本的な治療を重視する考え方だった。

時間の経過とともに、二人の間で目に見えない歯車のずれが生じ始めているのを感じていた。

 

妻との出会い

精神的に疲れていた頃、偶然出会った女性と惹かれ合い、交際が始まりました。その女性こそ、後に人生を共にする妻、Tさんです。彼女の支えがあったからこそ、苦しい日々を乗り越え、約3年間勤務を続け、結婚という人生の転機を迎えました。

そして、その結婚を機に、久納は共に歩んだ院長とは、それぞれの道を歩むことを決意したのです。

2015年4月開業

開業する前に、久納は佐賀のゆめタウン内の整骨院で1年間だけ経験を積んだ。

そして、両親のサポートを受け、ついに自身の治療院を開院する。

しかし、その先には想像を絶する苦難の道が待っていたと、後の久納は語る。

治療一筋で生きてきた、ただの治療バカだった彼は、経営というものに全くの無頓着だったのだ。

それは、苦労の連続の始まりだった。

保険のブラックさと格闘

いくつかの店舗で経験を積む中で、久納は強く感じることがあった。

「この保険制度の歪んだ現状は、どうしても受け入れられない!」と。

ただでさえ困難な開業という道を選んだにも関わらず、さらに茨の道を選んでしまった久納。

《保険の適正利用》を掲げ、正々堂々と宣伝していった。

しかし、現実は厳しかった。

「え!?保険が使えないの!?だったら他に行くよ!」

と、なかなか理解してもらえず、文字通り地獄のような日々を味わった。

本来、保険が適用されるのは、骨折、脱臼、打撲、捻挫、肉離れといった急性外傷のみだ。

しかし、この業界にはびこる慣習は、完全にブラックボックスだった。

「怪我をしたということにして、保険を通しておきますね」

などという言葉が、まるで決まり文句のように飛び交っていた。

患者さんの経済的負担を減らすためとはいえ、それは紛れもない違法行為だ。

久納は激しく葛藤した。

「患者さんにより良いものを提供したい。しかし、不正を黙認して施術を続けるなんて……」

彼は、急性外傷には保険を適用し、慢性的な症状には自費で対応するという形式を選び、自身の技術で患者さんに喜んでもらう道を進むことを決意した。

治療バカと呼ばれる所以だろう。

そして、懸命な努力の末、予約表は何とか埋まるようになっていった。

受付を手伝ってくれた妻には、心から感謝している。

最終的に、数年後、久納の治療院は完全自費の慢性症状専門の整体院へと大きく舵を切った。

運命のいたずら

当時、20分と40分の施術コースで運営しており、決して楽な状況ではなかったものの、何とか生活はできていた。

しかし、ついにあのコロナ禍の時代が訪れたのだ。

メディアでは飲食業ばかりが売上低迷と報じられていたが、当院も例外ではなく、大きなダメージを受けた。

コロナ融資で一時的に持ち直したものの、その先は全く見通せない。

進むべき道が見えず、夜も眠れないほどの不眠症にまで陥ってしまった。

すぐにこの状況が好転するとは思えない。

そんな絶望的な状況の中、ある人物との出会いが、久納の治療家人生に大きな転機をもたらすことになる。

M式整体の師匠との出会い

そんな時、Facebookで繋がりのある先生がシェアした告知文が目に飛び込んできた。

「審査制の宮沢塾からM式トリプルアプローチ受講生募集!」

その文字を見た瞬間、久納は直感的にピンときた。

M式整体について調べていくうちに、自身の施術に決定的に欠けていたもの、そして長年求めていた頚椎の矯正が含まれていることを知った。

「このまま時間だけが過ぎても仕方がない……新たな武器を手に入れよう!」

藁にもすがる思いで、宮沢塾の審査に臨んだ。

幸いにも審査は無事通過。

こうして久納は、M式整体の創始者である宮沢資長先生という恩師と巡り合い、弟子入りすることになった。

緊急事態宣言下では、オンライン講座も開講してもらい、見よう見まねながらも熱心に技術の習得に励んだ。

妻との離婚

経営が傾き始めると、夫婦の間に亀裂が生じ始めました。

かつては固い絆で結ばれていた二人でしたが、いつしか互いの心はすれ違い、共に過ごすことが難しくなっていきました。

そして、2020年10月、二人はそれぞれの道を歩むことになったのです。

その頃、久納は深い心の痛みを抱えていました。

まるでその痛みを打ち消すかのように、彼は治療への情熱を燃やし、ひたすら仕事に没頭していきました。

自律神経を整えてもらい、涙があふれてきた

M式整体の学びは、通常オンライン。

緊急事態宣言解除後は、マスクと完全防備で実技を習いに行きました。

手技だけでなく、特殊な医療機器も使うM式は、とんでもない難易度でした。

提供方法、検査方法…全てが洗練されていて、真似てすぐできるものではありませんでした。

その勉強会で、師から自律神経の施術を受けました。

………

帰りの飛行機の中。

何か頭と胸の中がモヤモヤするのです。

するとツーーーー…と一筋の涙。

「あれ?俺が一番守りたかったモノってなんだっけ?家族だったよね?それが何で今俺一人でここにいるの?」

私自身が自律神経を乱していることに気づいた出来事でした。

飛行機の中で必死に涙をこらえ、必死にごまかし自宅に着きました。

止まらない…涙が止まらないんです。

私には一人息子がいます。

一番悲しい思いをさせた息子に、一緒に頑張って着いてきてくれた妻に申し訳なさの想いがどっと溢れてきたのです。

「あ”ぁぁぁぁぁぁぁぁ…」

あの時のことは一生忘れません。

そして自律神経治療の本質をこの身を持って理解した瞬間でした。

ひたすら磨き続けて2024年

M式整体を通して自律神経と自然治癒力の力を私自身も体感し、20年来悩まされてきた腰痛からも解放されました。

実を言うと、30代の頃には神経の異常が顕著で、デパートなどを歩いていると痛みや痺れが出る間欠性跛行という症状に苦しんでいたのです。

次第に、精神的な部分も落ち着きを取り戻していきました。

その過程で、心理カウンセラーである衛藤先生の講義にも参加し、心理カウンセラーのベーシックコースも修了しました。

こうして、「心」と「体」の自律神経の専門家、新たな治療家・久納将之が誕生したのです。

想像を絶する苦しみの日々でしたが……師や周りの方々との出会いが、私の道を大きく切り開いてくださいました!

2023年までの私は、患者さんに寄り添う心の余裕がなく、心を通わせることもできず、技術も未熟で、全くお役に立てませんでした。

今思えば、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

潮目が大きく変わったのは、2024年に入ってからでしょうか。

手技だけでは引き出すことのできない、自律神経の反応と自然治癒力の奥深い魅力。

その魅力に気づき、患者さんと心を通わせながら、その素晴らしさを伝え始めました。

すると、 徐々に理解者が一人、また一人と増えていったのです。

技術は、人様のためにこそ活かすもの。

初心を思い起こすことができた2024年。

そして年末、師である宮沢先生のもとから、円満に卒業することができました。

筋肉へのアプローチだけでなく、この骨格・神経へのアプローチを、ご縁のある全ての方々にお届けしたい!

地獄のようだった2020年から2024年までの4年間の経験と、師から受け継いだ教え。

それらを土台に、『本当に良いものです』と自信を持って言える整体へと育て上げることができました。

きっと、この出会いは偶然ではなく、必然だったのだと信じています。

「こんな思いを周りの人にしてほしくない」

治療家を志したあの時の熱い想いを、再びこの手に宿し、皆様の回復を全力でサポートさせていただきます。

磨き上げたこの施術をお困りの方へ届けます。

提携クリニック鳥越脳神経外科 鳥越先生

いきいき鳥栖北整骨院・整体院